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問26. 原罪はどのようにして祖先から子孫へと受け継がれるのでしょうか?

 問26. 原罪はどのようにして祖先から子孫へと受け継がれるのでしょうか? 答え:原罪は自然な生殖によって祖先から子孫へと受け継がれます。ですから、自然な生殖によって祖先から生まれたすべての子孫は、罪を犯した状態で生まれます。 原罪とは、神のようになりたいという願望です。この願望を最初に抱いた人物は、エデンの園のエバです。エバは神の国における邪悪な天使の象徴です。神の国で罪を犯した天使たちは、神のようになりたかったため、神に背き、神から離れました。これが貪欲と罪です。ユダの手紙1章6節とペトロの手紙二2章4節の内容は、エデンの園を描いたものとして示されています。 罪とは神のようになりたいという願望であり、神の戒めを破ることは罪の結果であり、罪の結果は死です。戒めを破ることが罪であると考える人は、霊的な死を理解していません。罪はこの世で始まったのではなく、神の国で始まったのです。 ローマ人への手紙 5:12 それゆえ、ひとりの人を通して罪が世界に入り、罪を通して死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同じように、全人類は罪を犯したので、罪の体という通路を通して、すべての人が肉の体に入りました。 それゆえ、原罪は次世代に受け継がれるのではなく、人は神の国において、それぞれが犯した罪を携えてこの世に生まれてくるのです。 ひとりの人とは最初の人アダムです。これは「ひとりの人のゆえに」と訳されており、「ひとりの人を通して」という意味です。最初の人アダムは、罪が世界に入った通路です。つまり、通路という言葉は、罪が通る体という意味です。ですから、罪の体とは罪の通路なのです。ローマ人への手紙6章6節の「罪の体」は、ギリシャ語で「罪の体」(τὸ σῶμα τῆς ἁμαρτίας)と呼ばれています。これは罪の塊ではなく、罪を宿す器です。罪を物として考えると、罪を宿す器のようなものです。 最初の人アダムがその役割を果たしています。ですから、最初の人はキリストです。最初の人から受け継がれた罪の体は、イエス・キリストに受け継がれました。イエスはマリアから罪の体を受け継ぎましたが、罪のない方です。イエスが十字架で死んだので、キリストにある者たちも罪の体に対して死に、罪の体は消え去りました。 ローマ人への手紙6章6-7節「私たちは、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは...

問25 人間が陥った状態の罪深さとは、何ですか。

 問25 人間が陥った状態の罪深さとは、何ですか。 答 人間が陥った状態の罪深さは、アダムの最初の罪、つまりアダムが創造された時の義の欠如と、その本性の腐敗にあります。この腐敗により、人間は霊的に善いものすべてに全く嫌悪し、善を行うことができなくなり、悪に完全に、そして絶えず傾倒するようになります。これは一般に原罪と呼ばれ、あらゆる実際の罪の根源となっています。 「神のかたちに造られた人間」は、男と女として再創造されましたが、彼らが神に対して罪を犯したとき、神のかたちは消え去りました。そして、彼らの心の奥底に、貪欲という偶像が根付きました。コロサイ人への手紙3章5節には、「ですから、地上にあるあなたがたの肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲望、そして貪欲、すなわち偶像礼拝を、殺しなさい。」とあります。 貪欲は良心を曇らせます。ですから、私たちは常に神のようになりたいという欲望によって自分を誇示しようとします。貪欲とは、神のようになりたいという欲望です。エバが善悪を知る木の実を食べたことは、霊的に、神の国で罪を犯し、神に敵対した天使の邪悪な心を象徴しており、これは原罪と呼ばれています。原罪とは、神のようになりたいという欲望を持つことです。ですから、私たちはその貪欲さゆえに罪を犯すのです。

問24. 罪とは何ですか?

 問24. 罪とは何ですか? 答え:罪とは、理性的な被造物に律法として与えられた神の律法に従わないこと、あるいはそれを犯すことです。 教義における罪は律法に基づいており、神の戒めを破ることが罪と呼ばれますが、罪とは神のようになりたいという貪欲さです。ですから、人々はその貪欲さゆえに罪を犯します。ですから、信者は教義と律法に基づいて悔い改めます。信者は律法に照らして自分が罪を犯しているかどうかを吟味し、罪を犯さないように努めて生きます。 律法に基づいて罪の問題を吟味するということは、自分が主体となり、罪を裁き、罪を犯さないように努め、自分が主人となることを意味します。イエスは私たちに、自分を否定し、自分の十字架を負うようにと言われました。私たちが存在するということは、罪の体(肉体)を意味します。それは、私たち自身という罪の体が死に、天から来る霊的な体を受けることを意味します。主体となるのは肉体ではなく、聖霊に導かれる霊的な心です。 ローマ人への手紙6章6-7節、「私たちは、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたことを知っているのです。それは、罪のからだが滅ぼされ、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は罪から解放されているのです。」罪はイエスと共に死ななければ消え去ることができません。罪のからだが罪を宿す器のようなものです。

問23. この堕落は人類をどのような状態に陥らせましたか?

 問23. この堕落は人類をどのような状態に陥らせましたか? 答え:この堕落は人類を罪と悲惨の状態へと導きました。 神は、放蕩息子のたとえ話のように、罪を抱えてこの世に生まれたすべての人間を悔い改めさせ、神の国に帰らせました。しかし、この世に生まれた人間は神を知らず、神に敵対しながら、この世の主人として生きています。ノアの洪水とソドムとゴモラの物語は​​、人間が死に値するほど悲惨な状態にあることを物語っています。 聖書は、ノアの時代にすべての人間が溺死するように運命づけられていたと語っています。ペテロの第二の手紙2章4-5節には、「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、地獄に投げ込み、裁きの時まで暗黒の鎖で縛り付けておられたのです。また、古い世界を容赦せず、義の宣教者であるノアと他の八人を生かしておき、不敬虔な世界に洪水をもたらしたのです。」とあります。 ペテロは、ノアの時代と神の国で罪を犯した天使を結びつけ、それは神の子(罪深い天使)が人の娘(土偶)を妻に迎えたためであると述べています。こうして、二人は結びつき、肉の人間となりました。肉の人間は例外なく、神のようになり、義を示したいと願っています。すべての人は死ななければなりません。 ロトの時代には、すべての人が火と硫黄で焼かれて死ぬことになっていました(ピュル・カイ・デイオン πῦρ καὶ θεῖον)。火と硫黄の言及は、黙示録20章10節にも見られます。「テン・ティムネン(湖)からピロス(火)カイ・デイウ(神の言葉)」という箇所で、デイウは硫黄と訳されていますが、これは神の言葉(ホ・ロゴス)です。火の池における火は聖霊を表しています。 聖徒とは、すでに水と火の裁きを受けた者たちです。罪の体は水の中で死に、古い人の衣は火の中で焼かれました。つまり、彼らは十字架の死と一体化しており、聖霊の洗礼を通して新しい人の衣を着せられています。しかし、キリストに属さない信者は、第二の死であるハデスに行き、言葉と聖霊の火によって裁かれます。 終わりの意味を悟った者だけが、新しい命に入ることができるのです。終末とは、キリストにある者たちの心に神殿が建てられ、イエスが再臨して彼らが一つとなり、神の国が実現することです。しかし、そうでない者たちにとっては、イエスの再臨は裁きです。終末は未来の時点ではなく、今まさに起こっているこ...

問22. 全人類は最初の罪において共に堕落したのでしょうか?

 問22. 全人類は最初の罪において共に堕落したのでしょうか? 答え:全人類の代表としてアダムと結ばれた契約は、アダムだけでなく彼の子孫にも向けられたものでした。ですから、アダムから通常の世代で生まれた全人類は、アダムにおいて共に罪を犯し、アダムと共に最初の罪において共に堕落したのです。 コロサイ人への手紙1章15節には、最初の人についてこう記されています。「キリストは、見えない神のかたちであり、すべての被造物の上に最初に生まれた方です。」これはキリストを指しており、キリストが最初の人であることを私たちに伝えています。 最初の人は、罪の体を男と女に与えました。イエスの十字架上の死は、罪の体の死を意味しています。だからこそ、イエスは十字架上で亡くなったとき、「すべてが成し遂げられた」と言われたのです。ヨハネによる福音書19章30節には、「イエスは酢を受けて、『すべてが成し遂げられた』と言われ、頭を垂れて息を引き取られた。」とあります。 聖書は洗礼について、ローマ人への手紙6章6節でこう述べています。「私たちは、自分の古い人がキリストと共に十字架につけられたことを知っているからです。それは、罪のからだが滅ぼされ、私たちがもはや罪の奴隷にならないためです。」 罪が世に入ったと言うとき、それは罪がどこか別のところから世に入ってきたという意味であり、そのどこか別のところとは神の国を意味します。ローマ人への手紙6章12節には、「それゆえ、ひとりの人を通して罪が世に入り、罪を通して死が入り、こうして死がすべての人に広がったのです。すべての人が罪を犯したからです。」とあります。ギリシャ語の「di」は「通って」という意味です。最初の人は、罪のからだが世に入ってきた経路でした。この世に生まれたすべての人は、生まれた瞬間から罪人です。 男のアダムと女のエバは、神の国で罪を犯した天使の霊を象徴しています。彼らは自分の罪を抱えてこの世に生まれ、神のようになることを望みながら、神に敵対しました。ですから、すべての人間は自分の罪を抱えてこの世に生まれてくるのです。罪は最初の人によって与えられた罪深い体を通して世界に入り込み、最後のアダムは十字架上でその罪深い体を取り除きました。つまり、最初に世界に入ったのは男性のアダムと女性のエバでした。

問21. 私たちの最初の先祖は、創造されたときのままの本来の立場を保っていましたか?

 問21. 私たちの最初の先祖は、創造されたときのままの本来の立場を保っていましたか? 答え:私たちの最初の先祖は、自分の好きなように行動する自由を持っていたため、サタンの誘惑に屈し、禁断の実を食べることで神の戒めを破り、創造された本来の無垢の立場から堕落しました。 信者は、この世に生きるすべての人類の祖先が誰であるかを知らなければなりません。それは最初の人間だったのでしょうか、それとも男アダムと女エバだったのでしょうか? まず、肉体の観点から言えば、男アダムと女エバは最初の人間とは別に創造されたので、この世のすべての人々の肉体的な祖先は最初の人間です。最初の人間と最後の人間の関係において言えば、最初の人間は男と女に分かれる前の人間です。最初の人間は男だったのでしょうか?最初の人間はキリストでした。イエスもまた聖霊によって宿りました。イエスは男だったのでしょうか?聖書がイエスを人の子と呼ぶのはそのためです。 「受肉」という言葉は、人間に他なりません。形は男性かもしれませんが、生物学的な意味から考えると、それは単なる人間です。イエスが聖霊によって宿ったという記述が理解できないのと同様に、イエスが生物学的に男性でも女性でもないという記述も理解できません。 第二に、霊的な観点から見ると、神は最初の人の心に神の像である神殿を建てました。しかし、最初の人の後、男と女は神に対して罪を犯したため、神はアダムとエバを神殿から追い出しました。この神殿はエデンを象徴しています。そして、神もエデンを去ったため、神殿は石の墓のような古い神殿になってしまいました。今、新しい神殿が建てられることによってのみ、神の像が回復されるのです。 霊的に言えば、最初の人はキリストであり、キリストは罪を犯さなかったのですが、男と女が分離した後、男アダムと女エバは神に対して罪を犯し、初めて罪が世界に入りました。したがって、世界の人々の霊的な祖先は、罪を犯した男アダムと女エバであると言うべきです。なぜなら、罪は彼らから始まったからです。

問20. 創造後、堕落前の人間の状態に関する神の摂理とはどのようなものでしたか。

 問20. 創造後、堕落前の人間の状態に関する神の摂理とはどのようなものでしたか。 答。創造後、堕落前の人間の状態に関する神の摂理とは、人間を楽園に置き、それを耕作させ、地の産物を自由に食べさせ、他の被造物を神の支配下に置き、人間を助ける伴侶と結婚させることでした。また、神は人間に神ご自身との交わりの機会を与え、安息日を制定し、完全な個人的かつ永遠の服従を条件に人間と生命の契約を結びました。その契約の保証として生命の木の実が与えられ、善悪を知る木の実を食べることを禁じられました。その罰は死でした。 創世記(1章~3章)には、神が天地を創造し、次に人間を創造し、エデンの園を創造してそこに置かれたと記されています。創世記2章7-8節「主なる神は土の塵で人を造り、その鼻に命の息を吹き込まれた。人は生きた者となった。主なる神は東の方にエデンの園を設け、その造った人をそこに置かれた。」 創世記2章と3章には、エデンの命の木、園の中央の木の実を食べてはならないという戒め、四つの川とそれを守り耕せという戒め、獣と鳥の名前とそれらを支配するようにという戒め、そしてベフィルの物語が記されています。 神が人を創造した後、堕落する前の人間には二つの姿があります。一つ目は、この世に創造された人間の姿です。創世記2章7節で「人は生きた者となった」とありますが、これは「ネフェシュ・ハイ」とは生き物という意味です。それは限られた命です。限られた命は必ず死ななければなりません。 二つ目は、エデンにおける人間の姿です。生命の木の実を食べるというイメージにおいて、生命の木とは永遠の命の木を意味し、永遠の命の木はこの世にあるのではなく、霊的に死なない神の国の話として捉えることができます。そのため、この世は霊的な死の場となります。エデンとは、人の心の中にある神の国を意味します。 神は、限られた寿命を持つ人間を地上に創造しましたが、多くの人は、神が永遠に生きられる楽園、生命の木の実を食べて永遠に祝福の中で生きられる楽園を創造したと考えています。しかし、これは物理的な話ではなく、霊的な話です。 神は物質世界を創造し、人間を創造しましたが、人間は霊的に死んでいます。霊的に死んでいるのは、天使の罪によって彼の霊が地上に閉じ込められており、神を知らないからです。だからこそ、神は人間の心に神の神殿(エデン)を...

問19. 天使に対する神の摂理とは何ですか?

 問19. 天使に対する神の摂理とは何ですか? 答え:神は摂理によって、ある天使が救いようのない罪に陥り、罰を受けることをお許しになりました。そして、神の栄光のために、彼らのすべての罪を罰し、秩序づけられました。残りの天使たちは聖なる者、幸いな者とされ、御自身の力と慈しみと正義に仕えるために、御心のままに用いられました。 天使に対する神の摂理とは、世界の創造に先立ち、天使が自らの自由意志によって永遠の命の祝福を享受するように創造されたことです。それゆえ、神は休息し、天使は常に神を礼拝し、神の支配の下で休息を享受します。天使の地位は神の支配下にあり、神を礼拝することです。 しかし、神の休息は罪深い天使によって破られました。罪深い天使たちは神の支配を拒否しました。これは、エバが神のようになりたくて善悪を知る木の実を食べたことに見ることができます。 創世記 2:16-17「主なる神は人に命じて言われた。『園のどの木からも、あなたは心のままに食べてよい。しかし、善悪を知る木からは、食べてはならない。それを食べると必ず死ぬからである。』」神の戒めは、善悪を知る木の実を食べてはならないというものでしたが、神はそれが毒キノコのようなもので、食べれば死ぬことを明らかにされました。それでも彼らは貪欲にその実を食べました。 創世記 3:6「女はその木を見ると、食べるに良く、目に美しく、賢くなるには好ましい木であったので、その実を取って食べ、また、一緒にいた夫にも与えたので、彼もそれを食べた。」夫婦の比喩は、エペソ人への手紙 5:31-32に表現されています。 「それゆえ、人は父母を離れ、妻と結ばれ、二人は一体となる。これは深遠な奥義ですが、私はキリストと教会について語っています。」父は神を、子はキリストを、そして妻は神の戒めに背いた堕天使を象徴しています。 したがって、これは堕天使が肉体に囚われていた状態から人間となり、キリストと出会い、神のもとに戻ることを比喩的に表しています。これは奥義です。 神は堕天使のためにキリストを定め、堕天使をこの世に閉じ込めて人間にしましたが、その後、再び救うことを決意しました。そこで今、罪を犯さなかった天使たちは、神の働きを行うために様々なグループに分かれています。 まず、罪人を試し、告発する告発者として働く天使たちがいます。彼らはサタン、悪魔、...

問18. 神の摂理の業とは何ですか?

 問18. 神の摂理の業とは何ですか? 答え:神の摂理の業とは、最も聖なる、最も知恵深い、そして最も力強い御方が、万物を守り、支配し、また被造物とその行動を神自身の栄光のために支配することです。 神は霊であり、物質の反対です。万物は全世界のあらゆるものを指しますが、「神が万物を善く創造された」という表現は、万物が世界の創造前に神によって定められた計画に従って創造されたという表現であり、万物が神の目に善であったという意味ではありません。 したがって、神の摂理の業とは、この世に生きるすべての人々を悔い改めて神の国に帰らせることであり、この世に永遠に生きさせることではありません。神の摂理の業が終わると、神はこの世を火で裁かれます。 ペテロの手紙二 3:7「しかし、今ある天と地は、同じ御言葉によって、不敬虔な人々の裁きと滅びの日まで、火のために取っておかれているのです。」イエス・キリストに入る者は救われますが、入らない者は裁かれます。そして、この世の終わりは必ず来ます。 ペテロの手紙二 3:8-10「愛する者たちよ、この一事を忘れてはなりません。主にとっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人々が遅いと思っているように、約束の実現が遅いのではありません。むしろ、あなたがたに対して忍耐強く、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに至ることを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人が夜来るように来ます。天は大音響とともに消え去り、天体は焼け焦げ、地とそこに造られたものはすべて焼き尽くされます。」

問17. 神はどのようにして人を創造しましたか?

 問17. 神はどのようにして人を創造しましたか? 答え:神は他のすべての被造物を創造した後、男と女を創造しました。男の体は土の塵から、女は男の肋骨から造られました。神は彼らに生きた、理性的な、不滅の魂を与えました。神は彼らをご自身のかたちに、知識と正義と聖さをもって創造し、その心に律法を書き記し、被造物を支配する力と律法を守る力を与えました。しかし、神は彼らを滅びに服させました。 神はすべてのものを創造した後、土の塵でそれらを形作り、命の息を吹き込んで人を創造されました。創世記2章7節「神は土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き込んだ。すると人は生きた者となった。」 創世記1章27節には、「神はご自身のかたちに人を創造された。神のかたちに創造し、男と女に創造された。」とあります。聖書は最初の人の創造と男と女の創造について語っています。この二つは同じ創造ではなく、異なる創造です。神は最初の人を創造し、その最初の人を通して男と女を創造したと書かれています。 多くの人は神の像を知識、義、聖さと考えますが、神の像はキリストです。コロサイ人への手紙1章15節には、「キリストは、見えない神の像、すべての被造物の中で最初に生まれた方です」とあります。英語では「長子」と訳され、ギリシャ語ではプロトトコス(πρωτότοκος)です。プロトトコス(πρωτότοκος)とは、「秩序において先頭に立つ者」という意味です。キリストの予定説では、キリストはすべてのものの始まりであるという概念です。したがって、キリストはすべての被造物の中で最初に生まれた者、最初の人となります。 最初の人とは、神の像を持つ者です。神の像とは、魂の中にある神殿を意味し、神はこの神殿に存在します。だからこそ、最初の人はキリストと呼ばれたのです。しかし、男と女は罪を抱えて生まれた者であり、神の像を持たない者です。神の像を回復するには、贖罪の死を通してのみ得ることができます。イエス・キリストは贖罪の死を遂げ、イエス・キリストと一つになった者こそが、神の像を回復した者なのです。

問16. 神はどのように天使を創造しましたか?

 問16. 神はどのように天使を創造しましたか? 答え:神は天使を霊として、不滅の霊として、聖なる、知識に優れた、力強い存在として創造しました。そして、天使を神の戒めを守り、神の聖なる御名を賛美するように、しかし変化するようにされました。 天使は霊的な存在です。したがって、不滅の存在であると言えます。ヘブル人への手紙 1章14節「彼らは皆、救いを受け継ぐ人々に仕えるために遣わされた、奉仕の霊ではありませんか。」 霊的な存在は霊的な体も持っています。ですから、天使も霊的な体を持っています。コリント人への手紙第一 15章44節「自然の体で蒔かれれば、霊の体でよみがえります。自然の体があれば、霊の体もあります。」 旧約聖書では、エホバは天使たちと共にアブラハムに現れました。創世記 18:1-3 「主は、アブラハムが日中の暑い頃、マムレの樫の木のそばで天幕の入口に座っていたときに現れた。彼は目を上げて見ると、なんと三人の男が彼の前に立っていた。主は彼らを見ると、天幕の入口から走り寄って彼らを迎え、地にひれ伏して言った。『わが主よ、もし私があなたの前に恵みを得ているなら、このしもべのそばを通らないでください。』」 彼らが食事をしている様子を見ることができます。創世記 18:8には、「アブラハムは凝乳と乳と、用意しておいた子牛を取り、彼らの前に供えた。彼は木の下で彼らのそばに立ち、彼らは食べた。」とあります。 聖徒たちは、霊的な体を復活の体と呼ぶことができます。復活とは、体が死んで生き返るという意味ではなく、天から神秘的な体として生まれるという意味です。また、復活した体はこの世に生きる男女のような体ではなく、天使のような体であると言われています。 ルカによる福音書 20:35-36 しかし、その年齢に達し、死人の中から復活する資格があると認められた者は、めとることも、とつぐこともなく、もはや死ぬこともありません。彼らは天使と同等であり、復活の子である神の子だからです。 霊が霊の体を受けると、その体は空間を超越した体として現れます。それは突然現れ、そして消え去ります。イエスは復活後、弟子たちに突然現れ、そして消え去りました。 ヨハネによる福音書 20:19 週の初めの日の夕方、弟子たちがユダヤ人を恐れて家の戸を閉めていると、イエスが来て彼らの中に立ち、「平和があなたがたに...

問15. 創造の業とは何ですか?

 問15. 創造の業とは何ですか? 答え:創造の業とは、初めに神が御自身の力ある言葉によって、六日間で無から世界と万物を創造されたことです。万物は良しとされました。 神は罪深い天使たちを閉じ込めるために天地を創造されました。天と地には、光、水、大空、草、種をつける植物、実をつける木、空の光、鳥、海の生き物、地の動物が創造されました。神は人間を創造し、男と女を創造されました。 神は七日間の創造の後、休まれました。創世記 2:1-3「天と地、そしてその万象は完成した。第七の日に神はその御業を終え、そのすべての御業を離れて第七の日に休まれた。神は第七日を祝福し、聖別された。神はその日に、創造の業を終えて休まれたからである。」創世記2章1節で「万物」と訳されているハバムは軍隊です。神は6日間で天地を創造し、天と地にあらゆる生き物を造られました。これらはすべて神の軍隊です。7日目に、天の軍隊と地の軍隊が組織され、調和しました。これは、神の国の軍隊(霊)とこの地の軍隊(罪深い霊)が完全に展開したことを意味します。 ルカによる福音書2章13節には、「すると突然、大勢の天の軍勢が御使いと共に現れ、神を賛美して言った。『それとも、今、わたしが父に祈れば、父は十二軍団(ラテン語でレギオン)以上の御使いを備えてくださるとでも思うのですか。』」とあります。ここでは天の軍隊と表現されています。天の軍隊とは天使のことです。 この「ハバ」と呼ばれる軍隊は、神の国の軍隊であると同時に、この地の軍隊でもあります。 「万軍の神、エホバ」という表現は旧約聖書に頻繁に登場します。詩篇69篇6節には、「万軍の主なる神よ。あなたを待ち望む者たちが、わたしのゆえに恥をかかないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを尋ね求める者たちが、わたしのゆえに恥をかかないようにしてください。」とあります。また、詩篇80篇4節では、「万軍の主なる神よ。いつまで、あなたの民の祈りに怒られるのですか。」と、イスラエルは軍隊として言及されています。 「神は第七日を祝福し、これを聖別された。」神は世界の創造以前から救いを計画しておられたので、この祝福は堕天使たちが復活の命を得て神の国に戻ることを意味します。神はこの日に休息されました。そして、休息の主はキリストです。それは、私たちがキリストを通して天の祝福を受けることを...

問14. 神はどのようにその定めを遂行するのですか?

 問14. 神はどのようにその定めを遂行するのですか? 答え:神は創造と摂理の業において、絶対的に確実な予知と自由で不変の意志に基づき、その定めを遂行します。 神は世界の創造以前からキリストを予定し、その予定された計画に従って御心を遂行します。まず、堕落した天使たちを物質世界に閉じ込めるために天地を創造し、次に人間を創造し、さらに最初の人間を通して男と女を創造し、そしてアダムの後の信仰の先駆者たちを選んで御心を遂行させました。 しかし、人間は神の御心を無視して、自分の正義を追求しようとしていることを示しています。ですから、ノアの洪水を通して、神はすべての人間が死ぬ運命にあることを示し、キリストを象徴する箱舟を通してノアとその7人家族だけを救ったのです。 ノアの洪水の後、神はアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルを選び、世界のすべての人々に御心を示されました。しかし、イスラエルが神を裏切り、偶像を拝んだとき、神はイスラエルを異国の民に従わせ、預言者を通して彼らを御心のもとに連れ戻されました。しかし、預言者たちは神の言葉を伝えましたが、多くの王たちは神の言葉に従わなかったのです。 イスラエルがローマの支配下にあったとき、彼らはメシアを送りましたが、同時にメシアを十字架につけました。しかし、神はイエス・キリストを復活させ、イエス・キリストと結ばれたすべての人を救うことを決意されました。これは世界の創造以前から既に定められていたことです。 エペソ人への手紙 1章4節「神は、世界の基が置かれる前から、私たちをキリストにあって選び、愛によって御前に聖く、傷のない者となるようにと、あらかじめ定めておられました。御心のままに、私たちをイエス・キリストによって御自身の子として受け入れようと、あらかじめ定めておられたのです。」 「世界の基が置かれる前からキリストにあって私たちを選んでくださった」とは、物質的なものよりも霊的なものが大切であることを示しています。プロ・カタボレス(πρὸ καταβολῆς)は「世界の基が置かれる前から」という意味です。「キリストにあって選ぶ」という言葉がカタボレスの前に来ています。これは、キリストの予定(キリストにおける)がまず最初にあり、その後に世界で実現される結果が来ることを意味します。 多くの教会の人々は、ある聖徒たちは世界の基が置か...

問13. 神は天使と人間について、何を特別に定められましたか。

 問13. 神は天使と人間について、何を特別に定められましたか。 答え。神は、永遠の愛と不変の計画に基づき、ある天使を栄光に、ある天使をキリストに選び、永遠の命とそれを得る道を与えられました。これは、時の満ちる時に明らかにされる神の栄光ある恵みをたたえるためです。残りの天使については、神の主権と計り知れない計画に従い、御心のままに恵みを与えたり、与えなかったりして、神の正義の栄光をたたえるためです。そして、罪のゆえに、非難と怒りの下で苦しみと罰を受けるままに残されました。 天使は神の被造物であり、神の王国において補助的な役割を果たします。しかし、天使は二つの種類に分けられます。それは、捕らえられる者と捕らえる者です。この世において、誰かが罪を犯すと、罪人と罪人を捕らえる者に分けられます。両者は同じ人間ですが、一方は投獄され、もう一方は罪人を投獄する役割を担っています。同様に、天使は罪を犯すと投獄されますが、彼らを投獄する者もまた天使です。そして、投獄された者に福音を宣べ伝え、悔い改めさせて立ち返らせる者もまた天使です。 投獄する者は神の天使であり、投獄される者は人間です。これは創世記2章1節によく表れています。「天と地とその万象が完成した。」 これは「天と地とその万象が形造られた」と訳されるべきでした。神は6日間で天と地を創造し、天と地にあらゆる種類の生き物を造られました。これらすべてが神の万象です。7日目には、天の万象と地の万象が調和します。これは、神の王国の軍隊(霊たち)とこの地上の軍隊(罪深い霊たち)が完全に展開されたことを意味します。

問12. 神の定めとは何ですか?

 問12. 神の定めとは何ですか? 答え:神の定めとは、神ご自身の意志による賢明で自由で聖なる行為です。神はそれによって、ご自身の栄光のために、特に天使と人間に関して、永遠の昔から、起こるべきすべてのことを変わることなく定めておられます。 神の定めとは、堕天使に関して神が計画し、実行するすべてのことを指します。ユダの手紙1章6節には、「自分の立場を守らず、その本来の住まいを捨てた天使たちを、神は大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で暗闇の中に閉じ込めておられます」とあります。ペテロの手紙二2章4節には、「もし神が、罪を犯した天使たちを容赦せず、地獄に投げ込み、裁きの時まで暗闇の鎖に繋いでおられたのであれば」とあります。 堕天使の霊が塵に閉じ込められて人間になったという具体的な聖書の箇所はありませんが、創世記2章7節の「主なる神は土の塵で人を形造り、その鼻に命の息を吹き込まれた。すると人は生きた者となった」という箇所から理解できます。 塵の概念は、神から与えられた霊の対義語です。伝道の書12章7節には「塵はもとのように土に帰り、霊はそれを授けた神に帰ることを覚えておけ」とあります。ここでの塵とは肉体のことです。霊が肉体にある時は生きた者となりますが、霊が去ると肉体は命を失います。ルカによる福音書8章54-55節には「イエスは彼女の手を取って、『幼子よ、起きなさい』と叫ばれた。すると、彼女の霊が戻り、彼女はすぐに起きた。そこでイエスは、何か食べ物を与えるように命じられた。」とあります。創世記6章1-13節は、霊と肉が結合して人となることについて語っています。「人が地の面にふえ始め、娘たちが生まれたとき、神の子らは人の娘たちの美しさを見て、皆、自分たちの好む者を妻にめとった。主は言われた。『わたしの霊はいつまでも人の中にとどまることはできない。人は肉であるからだ。しかし、その年は百二十年である。』」 神の子らは天使の霊を、人の娘たちは肉を表しています。霊と肉は結合して人となりましたが、エホバの霊が彼らと共にいなかったため、彼らは死ななければならない命となりました。 神の計画において、神は堕落した天使の霊を閉じ込めるために物質世界を創造し、彼らの霊を塵の中に閉じ込めて人間にされました。しかし、神はキリストを予定し、キリストを通して彼らを神の国に連れ戻されました。 マタ...

問11. 御子と聖霊は父と同一の神であると言うことはどういう意味ですか?

 問11. 御子と聖霊は父と同一の神であると言うことはどういう意味ですか? 答え:聖書は、御子と聖霊は父と同一の神であると明確に述べており、御子と聖霊に、神のみに与えられるべきすべての名、属性、働き、礼拝を与えています。 ヨハネ第一 4:13「これによって、私たちが神のうちにとどまり、神が私たちにとどまっておられることが分かります。神が御霊を私たちに与えてくださったからです。」聖徒たちに聖霊を与えるのは、復活したキリストです。復活したキリストは人間ではなく、エホバ神ですが、世の終わりの裁きまで神の子であり続けます。したがって、キリストが聖霊を与えるということは、神がキリストに聖霊を注ぎ、キリストが聖徒たちに聖霊を注ぐことを意味します。したがって、御子と聖霊は父と同一の神ではありません。 「エン・オート」とは、キリストにとどまっているという意味です。聖霊が来ると、聖徒たちは聖霊の力によってキリストに結ばれます。ですから、キリストもまた聖霊の力によって聖徒たちのうちにおられます。聖霊のバプテスマを与えるのはキリストご自身です。 ヨハネの手紙一 4:14-15 私たちは、父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、そのことを証しします。イエスを神の子と告白する者は、神がその人のうちに住み、その人も神のうちにいます。 これは、父なる神と御子イエス・キリスト、そして聖徒たちの関係を示しています。「私たち」とは、ヨハネを含む弟子たちのグループを指しています。彼らはイエス・キリストを直接見た者たちです。イエスが神の子であることを認める者たちはキリストのうちにおり、父なる神は聖徒たちのうちに住んでおられます。ここに、父なる神、子なる神、そして聖徒たちが聖霊の中で一体となる姿を見ることができます。 父とイエス・キリストと聖徒たちが聖霊において一つになるという前提のもと、その一体性は、この地上で神の子を通して啓示される神と人の関係、そして神の国におけるキリストと聖霊と聖徒たちの関係を表現しています。この一体性は、神と神の子と聖霊を通して啓示されるだけでなく、神と神の子と聖徒たちの間でも機能しているのを見ることができます。 このように、一体性は神と聖徒たちの一体性を説明するための図解です。もともと彼らは一つでしたが、罪深い天使によって引き離されたので、聖書は彼らが再び一つに戻ら...

問10. 三位一体の三つの明確な特徴は何ですか?

 問10. 三位一体の三つの明確な特徴は何ですか? 答え:父は子をもうけ、子は父から生まれ、聖霊は永遠の昔から父と子から発しています。子と聖霊は、子と聖霊に名前、属性、働き、そして礼拝を帰属させることで、父と同等の神であることを示しています。 三位一体の教義について見てみると、三位一体の教義の初期の起源はキリスト論(キリスト論)の拡大から始まりました。70年間続いたユダヤ戦争において、新たに誕生したキリスト教からは他の学派が姿を消し、残ったのはパリサイ派ユダヤ教、人間性を重視するエピスケス派、そして神性の霊的要素のみを重視するグノーシス主義だけでした。これはキリスト教の根幹を揺るがす刺激となり、肉体を持ったイエス・キリストがどのような存在であるかを論理的に説明する神学理論となりました。 この頃、成立した新約聖書に基づいて、キリスト論の教理と、そのキリスト論の存在理由の説明である三位一体論が生まれました。三位一体論は徐々に発展し、この世界を説明する世界観、神学的指針として、キリスト教の重要な教理となりました。 三位一体論とは、父、子、聖霊がそれぞれ神として存在するが、本質的には一つの神であるという教理です。三位一体論という用語は、後の教会によっても用いられました。しかし、三位一体論には様々な解釈があります。三神論は、三つの位格を持つ三つの神がいるとする説です。様相論は、神は一つの位格を持つ一つの神であり、時代に応じて父、子、聖霊の姿で現れるとする説です。様相論は、神は旧約時代には父として、新約時代には子として、新約以降は聖霊として働くと主張します。従属主義とは、父、子、聖霊は完全に一つの主体であるが、子と聖霊は父に従属するという説です。養子論は、イエスが神の子となったのは、神がイエスを養子として迎え入れたからであると主張します。 三位一体論を支持する教派や分派の多くは、キリスト教の神学的伝統を受け継ぎ、旧約聖書と新約聖書のみを聖典として認め、普遍教会時代の神学的基準を使徒的指針として受け入れる教派です。これには、東方正教会、カトリック教会、そしてプロテスタントのルター派、改革派、英国国教会、バプテスト派、長老派、メソジスト派、ホーリネス派、ペンテコステ派などの教派が含まれます。 反三位一体論を唱える教派の多くは19世紀以降に出現した教派であり、現在の主流キリス...

問9. 神にはいくつの位格がありますか?

 問9. 神にはいくつの位格がありますか? 答え:神には父、子、聖霊の三位格があります。この三位格は唯一真実で永遠の神であり、本質において一つであり、力と栄光において等しく、人格においてのみ異なります。 今日の教会共同体では、信者は三位一体論に基づき、父なる神、子なる神、聖霊なる神と呼びます。しかし、聖書のどこにも子なる神、聖霊なる神と書いてありません。イエス・キリストは父なる神と呼び、神の子でした​​。そして、聖霊は旧約聖書ではエホバの霊、新約聖書ではイエスの霊(またはキリストの霊)と呼ばれています。 したがって、神には神性はありません。父なる神、イエス・キリスト、そして聖徒たちは聖霊において一つであると言うことしかできません。これは区別ではなく、一体性を表しています。ヨハネ17:11「わたしはもはや世にいません。しかし、彼らは世にいます。わたしはあなたのところに来ます。聖なる父よ、あなたがわたしに与えてくださった者たちを、あなたの御名によって守ってください。わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。」 聖霊は神から来るので、光の属性は一つですが、神そのものではありません。新約聖書の時代において、神がイエス・キリストに聖霊を遣わされたとき、イエスは弟子たちに聖霊を与えられました。聖霊は言葉であり、命の光のようなものです。ヨハネ15:26、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わす助け主、父のもとから出て来る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証しをします。」

問8. 神以外に神はいますか?

 問8. 神以外に神はいますか? 答え:生ける真の神はただ一人です。 神はただ一人ですが、神を信じると言う人々が自分なりに神を定義し、神と呼ぶため、真の神に出会うことは容易ではありません。 聖書もまた、神の正体について様々な表現で語っています。「我は我なり」はヘブライ語で「ハヤ・アシェル・ハヤ」です。その後、ユダヤ人は神をアドナイと呼びましたが、時が経つにつれてヤハウェと呼ぶようになり、今日では各国の言語への翻訳によって神の正体は混乱しています。特に英語ではLORD(主)と訳されました。しかし、唯一の真の神は、イエス・キリストが父と呼ぶ方です。イエスは神の子とならなければ、イエスを通して救われることはできません。キリストにある者もイエスのように神を父と呼びます。そして、神を父と呼ぶことができる聖徒とは、イエスが自分と共に十字架上で死に、自分と共に復活したと信じる者です。言い換えれば、聖霊の洗礼を受けた者は真の神を父と呼ぶのです。

質問7. 神とは何ですか?

 質問7. 神とは何ですか? 答え。神は霊であり、その存在、栄光、祝福、完全性、自給自足、永遠性、不変性、神秘性、遍在性、全能性、全知性、最大限の善良さ、神聖さ、正義、恩寵、寛容性、そしてその善良さと真実の豊かさにおいて無限です。 神は自存する。自己存在とは誰からも影響を受けず、人間の思考や知識では知りえない神秘的な存在だが、人間と精神的に交信する存在である。したがって、神は霊的な存在であると言われ、神は人間に崇拝されることを望んでいます。人間は神に憑依されたいのです。憑依されると、人は神と一体となり、神について知ることができるようになります。 神は霊であり、人間の肉眼では見ることができません。ヨハネ1:18の「いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り子なる神が、神を示された」の「独り子なる神が、神を示された」という部分が誤って翻訳されていました。それは「独り子(ホーオン ὁ ὢν)が彼を啓示した(μονογενὴς θεὸς)」でなければなりません。唯一の御子はイエス・キリストです。 ですから、イエスはヨハネ4章24節でこう言っています。「神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまこととをもって礼拝しなければなりません。」礼拝とは神と一体になることを意味します。礼拝とは、神、イエス・キリスト(真理)、そして聖徒たちが聖霊(プネウマ)において一つになることを意味します。神は聖霊を通してキリストにある聖徒たちに働き、彼らに神の存在を知らせ、聖徒たちは神を彼らの主として崇拝します。これは神に憑かれた人の姿です。神に憑かれた人は神の言葉に従って行動します。 神は天と地を創造し、人を創造し、男と女を創造した。しかし、神は言葉によって創造しました。ヨハネ1:1-3には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。初めに言は神と共にあった。すべてのものは言によって造られた。造られたもので、一つとしてこれによらないものはなかった。」とあります。 信者は、神が世界を創造したことに関して、神は偉大な神であると言うのではなく、まず神がなぜ世界を創造し、人間を創造したのかを理解しなければなりません。神が世界と人間を創造したのは、人々に神の栄光を見せつけるためではなく、神の救済計画の一環としてであったという事実に、彼らは驚かされるに違いありません。ですから、私た...

問6. 聖書は神について何を語っていますか?

 問6. 聖書は神について何を語っていますか? 答え:聖書は、神がどのような方であるか、神の位格は何か、神の定め、そしてそれらの定めがどのように成就するかについて教えています。 聖書はたとえ話や啓示を通して神について語っており、私たちは神の御心を通して聖書の意味を間接的に理解することができます。聖書が神について、あるいは神がどのような方であるかを私たちに伝えたとしても、聖書を読む人は神を知り、理解しているわけではありません。 神の御心は、この世で罪の中に生きるすべての人々を救うことです。ですから、聖書のたとえ話を通して理解する人だけが、神の御心を理解し、神の言葉である聖書の中で神を求めることができるのです。 聖書は、神の国と世界の国を通して、世界の創造に先立つキリストの予定とイエス・キリストによるその予定の成就を通して、そしてその予定の成就を通して、神とイエス・キリストと聖徒たちは聖霊において一つにならなければならないと教えています。 聖書は、イエスの最後の祈りを通して、聖徒たちがキリストにおいて神と一つにならなければならないことを明確に示しています。イエスは、かつて神とキリストが一つであったように、弟子たちがキリストにおいて父と一つになるように祈っています。これが神の御心であり、神の御心を悟る者は神を知る者となります。 聖徒は神の御心を悟る者となり、神は正義の神であり、愛の神であると告白します。聖書がどれだけ神について語っていても、神の御心を知らない者は、神を教義的に考えます。神の御心に従わない者は、神と関係を持つことができず、したがって、神がどのような存在であるかを知ることができません。

問5. 聖書は主に何を教えていますか?

 問5. 聖書は主に何を教えていますか? 答え:聖書は主に、人間が神について何を信じるべきか、そして神が人間にどのような義務を求めているかを教えています。 聖書は、神がその民と結んだ契約について、具体的には旧約聖書においてはメシアの到来とイスラエルの回復について、新約聖書においてはメシアであるイエス・キリストの到来と、イエス・キリストによる罪からの解放と復活の命について教えています。 したがって、聖書は神をどのように信じるかを教えているのではなく、自分自身を否定し、イエス・キリストの信仰に入ることを教えています。神が望んでいるのは、律法のような義務について語ることではなく、聖徒たちがキリストにおいて神と一つになり、キリストの信仰に入ることです。

問4. 聖書が神の言葉であることは、どのようにして知ることができますか?

 問4. 聖書が神の言葉であることは、どのようにして知ることができますか? 答え:聖書自体が神の言葉であることを示しています。聖書自体の尊厳と純粋さ、そしてすべての部分の統一性は、聖書が神の言葉であることを示しています。聖書が神の言葉であるという事実は、すべての栄光を神に帰すことであり、罪人を説得し、悔い改めさせ、慰め、養い、救うその光と力によって示されます。しかし、人の心の中で聖書と共に証しする神の霊だけが、聖書が神の言葉であることを完全に確信することができます。 聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれており、旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれています。聖書は、神が聖霊の力によって、神に選ばれた人を通して人間に語られた書物であり、罪と救い、メシアに関する預言、メシアの出現と永遠の命について書かれた書物です。 この教義によれば、「人の心の中で聖書と共に証しをする神の霊だけが、聖書が神の言葉であることを完全に確信させることができる」とされ、証しをする者は三人います。ヨハネの手紙一 5:6-8「水と血によって来たのは、この方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血によって来たのです。証しをするのは御霊です。御霊は真理だからです。証しをするものは三つあります。御霊、水、血です。そして、この三つは一つです。」 これは、証しをするのは父、イエス・キリスト、そして聖霊であることを強調しています。父なる神は、すべての権威をキリストに委ねました。父なる神は聖霊を御子イエスに遣わします。ですから、証しをするのはイエス・キリストです。 水は律法を意味します。律法の中に隠されているのはキリストです。血は、この世に来て十字架で死んだイエスを意味します。イエス・キリストは律法の中に存在し、バプテスマのヨハネの後、律法の時代が終わると、肉体をも​​ってこの世に来られました。ですから、証しをするのはイエス・キリストです。 イエス・キリストは律法の中で、十字架上で死ぬ前、そして十字架上で死んで復活した後も、証しをします。律法の中のイエス、肉体をも​​ってこの世に来て律法に従って十字架上で死んだイエス・キリスト、そして聖霊によって復活したキリストが証しをするのです。ですから、聖徒たちの心の中で証しをするのはイエス・キリストだけです。ですから、聖書はイエス・キリストについての...

問3. 神の言葉とは何ですか?

 問3. 神の言葉とは何ですか? 答え:旧約聖書と新約聖書は神の言葉であり、信仰と実践の唯一の規範です。 信仰の律法によれば、神の言葉は律法と福音という二つの主要な分野に見出すことができます。律法は「するべきか、するべきでないか」という行為の戒めと言えるでしょう。一方、律法の言葉は、人々が神の戒めを完全に守ることのできない存在であることを自覚し、キリストを見出すための言葉であり、福音はキリストが来られたこと、そしてキリストに入るなら救われるというものです。したがって、神の言葉は救いに導く信仰の律法と言えるでしょう。 しかし、行いという唯一の律法に基づいて見れば、律法は律法主義に変容する可能性があります。律法主義は行いを強調するため、福音は行いから切り離されてしまう可能性があります。イエス・キリストの信仰に入るなら救われるが、行いがそれに従わなければならないという条件が付けられます。この条件を付けるのが律法主義です。 ヤコブの手紙 2:14-17 兄弟たちよ。もしある人が「自分は信仰を持っている」と言っても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。信仰はその人を救うことができるでしょうか。兄弟または姉妹が裸で、日々の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのうちのひとりが、「安心して行きなさい。暖まり、満腹しなさい」と言っても、体に必要なものを与えなければ、何の役に立つでしょうか。同じように、信仰も行いを伴わないなら、それだけでは死んだものです。 当時、福音を受け入れたユダヤ人の中に、福音を信じながらも、救われるためには割礼を受けなければならないと考える人が大勢いました。この問題のために、エルサレムの教会で第一回会議が開かれ、割礼はイエス・キリストとの契約であると宣言されました。そして、イエスがこの世に来られ、十字架で死に、復活された今、割礼の契約は成就し、もはや割礼は必要ない、と宣言されました。しかし、多くのユダヤ人は依然として割礼を主張したので、ヤコブは行いについて語りました。ヤコブが語った行いとは、割礼を放棄する行為と、霊的な糧である復活の命を与える行為を意味していました。 ですから、神の言葉が唯一の行動規範であると言うならば、その行動とは律法に定められたことを守り実践することを意味しますが、これは旧約聖書と新約聖書における神の言葉の意味とは異なります...

問2. 神の存在はどのように明らかにされるのでしょうか?

  問 2. 神の存在はどのように明らかにされるのでしょうか?   答え:人間と神が造られた被造物に宿る自然の光は、神の存在をはっきりと示しています。しかし、神の言葉と聖 霊 だけが、人 々 に十分かつ 効 果的に神を明らかにし、救いを得ることができるのです。 ロ ー マ人への手紙 1:19-23 『神について知られるべきことは、神が彼らに示してくださったので、彼らには明らかです。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、世界の創造以 来 、被造物によって知られ、明らかに認められています。ですから、彼らには弁解の余地がありません。彼らは神を知りながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえって空 虚 な思いにふけり、愚かな心は暗くなっていたのです。彼らは知者と自 称 しながら愚かになり、朽ちることのない神の 栄 光を、朽ちる人間や鳥、 獣 、這うものの像と取り替えてしまったのです。』 神は自然の啓示を通してご自身を明らかにされますが、人はそれぞれ自分なりの方法で神を信じます。神はまた、被造物の像を通してご自身を明らかにされます。神の像とは神殿を意味し、すべての人は宗 教 心を持っているので、神の像を回復しようと努めます。 「しかし、神の言葉と聖 霊 だけが、人 々 を救いに導くのに十分かつ 効 果的に神を明らかにできるのです。」イエス ・ キリストが欠けています。イエス ・ キリストなしの救いは 真 の救いにはなり得ません。 ヨハネ 14:8-10 フィリポはイエスに言った。「主よ、父を私たちに示してください。そうすれば、私たちはそれで十分です。」イエスは彼に言われた。「フィリポ、こんなに長い間あなたと一 緒 にいるのに、あなたは私を知らないのか。私を見た者は、父を見たのだ。それなのに、どうして『父を見せてください』と言えるのか。私が父におり、父が私の 内 におられることを、あなたは信じないのか。私があなたに話している言葉は、私自身から話しているのではなく、私の 内 に住んでおられる父が、そのわざを行っているのである。」

問1. 人間の第一にして最高の目的とは何ですか?

  キリスト 教教 義解 説 (ウェストミンスタ ー 信仰告白 大要理問答)   キリスト 教 には多くの宗派があり、それぞれの 教 義は 独 自の解 釈 と定義を持ちます。宗派が 独 自の 教 義を定め、排他的な宗派を形成するのは、キリスト 教 が宗 教 化してしまったためです。これは、キリスト 教 が他の宗 教 とどのように異なるかに焦点が 当 てられているためです。しかし、キリスト 教 は宗 教 ではなく、神に向かう人生そのものです。人 々 は神から離れ、 独 自の宗 教 を創り上げました。これは、キリスト 教 共同 体 が他の宗 教 との差別化を 図 ろうとしたために起こったことです。 本 来 、キリス ト 教 には 教 義はありませんでしたが、もし 教 義があるとすれば、それはイエス ・ キリストの十字架上の死と復活という二つの言葉だけでしょう。さらに、必要であれば、聖書の重要な部分の意味を解 説 する解 説 があれば役立つでしょう。信者がより多くの意味を理解するためには、聖 霊 の導きを受け、それを解 釈 し、 従 うべきです。しかし、聖 霊 を知らないため、文字、つまり律法主義に固執し、 教 義の信者になってしまうのです。 ですから、今日、 教 義に執着する人 々 は、イエスの十字架上の死と復活を知らず、理解もしていないため、 説教 の際にそれについて語り ません。彼らは世俗的な祝福や自身の 経験 について語り、十字架上の死の意味について語る際にはたとえ話を中心に語ります。そのため、信者たちは、自分たちもイエスのように十字架を背負う人生を送らなければならないと誤解してしまいます。信者は、今日の 教 義が聖書における律法主義者のようなものだということを認識しなければなりません。   問 1. 人間の第一にして最高の目的とは何ですか? 答 . 人間の第一にして最高の目的は、神に 栄 光を 帰 し、永遠に神を完全に喜ぶことです。 創世記 2:7 「主なる神は土の塵で人を形造り、その鼻に命の息を吹き 込 まれた。人は生きる者(ネフェシュ ・ ハイ)となった。」ネフェシュ ・ ハイとは生きる者という意味です。永遠の命ではなく、限られた命です。しかし、最初の人は神のかたちに創造されました。 創...