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救われる者を日々仲間に加えて下さったのである

  『 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日 々 仲間に加えて下さったのである。 』 (使徒 2 章 47 節) 救わなければならない人は救われたのではない。 『 そこで、彼の 勧 めの言葉を 受けいれた者たちは、バプテスマを 受けたが、その日、仲間に加わったものが 三千人ほどあった。 』 (使徒 2 章 41 節) 救われるべき三千人の魂が加わったということである。魂が救われたのではなく、 霊 の救いれる 。   ピリポ執事に 沿って通っていた「職業が 魔法だったシモン」も、イエスを 信じて洗 礼 を 受けたが、ペテロが「あなたは不正に 満 ちた者」と述べただって、彼は 悔い改めを していなかったからである。ところで、ピリピ刑務所を 守 る 看守が パウロを 拷問した。夜に 刑務所の扉が 自然に 開いて、看守が 開いたドアを 発 見し、自殺しようとしたが、パウロが これを 制止した。看守は、神を 恐れていた。その看守が パウロに 尋ねた: " 私はどのようにしなければなら 救いを受けるのですか」。パウロが 看守に言った: " 主イエスを 信じなさい、そうすれば、あなたも あなたの家が 救わ " ピリピの看守は、悔い改めた者であった。しかし、魔法のシモンは、悔い改めをしていない者であった。 悔い改める 人は、神を 恐れている。今日では、人 々 が 神の言葉を 守らないのは、神を 恐れる 心が ないからである。神を 恐れていない者は 言い 訳 を 出したり、相手に 責任を 転 嫁させる。これ サタンの 戦 略である。悔い改めていない人が、このような 状 態だ。悔い改める人は 恐ろしい神を 知り、自分が 堕 落して、死ぬしかない存在であることを 知ることになる。悔い改めていない人は 自分の考え通りに 行動する 。 悔い改めた者は、私の有益とは 関 係なく、ただ神に 喜びになることだけである。今日では、多くの人が 自分の救いを探す。彼らは 救われたのか、受けなかったのかに興味を 持つ。救われる人は、創造主の神を追求する。救われる 人は、彼らが 神に 対 して 罪であることを 悟って、彼らの罪を 代わりにして 死なイエスを 探して、...

あなたがたのために天にたくわえてある

  『 ほむべきかな、わたしたちの主イエス ・ キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス ・ キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け 継 ぐ者として下さったのである。 』 (ペテロ 1 章 3-4 節) これは、ペテロが カタコンベ(ガプバギア)で 住んでいた 聖徒たちに 送った 手紙である。聖徒たちは 迫害を 避けて 山から 洞窟を 掘っ避難生活をしていた。神は イエス キリストが 父と呼ぶ。私たちが イエス キリストの中にいるときに、私たちも 神を 父と呼ぶことができる。悔い改めて 再び生まれなければ、イエス ・ キリストの中にいることができない。ペテロも イエスが 死ぬ 前に、イエスを 三度否認した。 悔改していない者である。今日では、多くの 人が 悔い改めていないながらも、神を 父と呼ぶ。 十字架で 死んだイエス キリ ストは、王の姿は なくて、罪人の姿だった。なぜ 神の御子が 十字架で 神の呪いのために 死んでましたか ? 神は罪を 許しにならないからである。さて、イエスは 罪が ない方である。罪がない 神の息子が 罪人で死んだのは驚くべきことである。神は 悔い改めをする者のために 自分の息子を 死なせたものである。悔い改める 人間が 何が 間違ってこのたので、イエス 様 が 十字架で呪いを 受けて死を 受けなければならか。これを 正しく知らなければ、悔い改めの意味を 知らないのだ 。 『 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり 込 んだのである。 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。 しかし、アダムからモ ー セまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。 』 (ロ - マ 5 章 12-14 節) 特にロ - マ( 5 章 14 節)で言うことは、アダムの 原罪(...