問77. 義認と聖化はどのように異なりますか?

 問77. 義認と聖化はどのように異なりますか?

答:聖化は義認と不可分に結びついていますが、両者には違いがあります。義認においては、神はキリストの義を私たちに帰属させますが、聖化においては、神の霊が恵みを注ぎ、信者がそれに従って正しい行いを行えるようにします。前者においては罪が赦され、後者においては罪が抑制されます。前者はすべての信者を神の復讐の怒りから平等に解放し、この世においてそれを完全にし、二度と罪に陥らないようにします。後者はすべての信者の間で平等ではなく、この世において完全になることもなく、ただ完全に向かって成長するだけです。


教義的な観点から言えば、人間は罪から完全に自由になることは不可能な存在であるため、死ぬまで罪と戦い、罪の赦しを得るために毎日イエスの血によって罪を洗い流さなければなりません。

ペテロ第一1章16節には、「『わたしは聖であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい』と書いてあります。」とあります。教理によれば、人間は聖なる者にはなれないのに、なぜ神は人間に聖なる者となるよう命じたのでしょうか。神は聖なる者となるべく努力せよと命じたのではなく、一気に聖なる者となるよう命じたのです。

信者たちが置かれている現状を人間の視点から見れば、彼らは聖なる者にはなれないし、罪から完全に逃れることもできないことは明らかです。しかし、神が見る対象と人間が考える対象は明らかに異なります。神が見る対象は霊的な部分であり、人間が見る対象は肉体的な部分です。

信者は肉体を自分自身と認識しているため、聖なる者とはならず、罪が目に見えるようになります。しかし、神は肉体に囚われた霊を罪から解放し、聖なる衣を着せてくださいます。つまり、肉体(罪の体)は死ななければならないということです。しかし、信者たちは霊のことを考えず、肉体に執着します。それは、復活とは肉体の復活だと信じているからです。

ヨハネによる福音書6章63節には、「命を与えるのは霊です。肉は何の益ももたらしません」とあります。信者たちが肉に執着し続けるなら、律法の時代に割礼に執着していたユダヤ人と何ら変わりません。また、人為的な教理に固執するなら、律法主義に執着していたユダヤ教と何ら変わりません。キリストの割礼とは、肉の体を脱ぎ捨て、霊の体を着ることであり、霊の体は復活の命を意味します。現在、復活の命を着ている人たちは、天からの霊の体を着ています。霊の体はキリストの衣なのです。

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