問73. 信仰はどのようにして罪人を神の前で義と認めるのでしょうか。
問73. 信仰はどのようにして罪人を神の前で義と認めるのでしょうか。
答え:信仰は罪人を神の前で義と認めますが、それは信仰に常に伴う他の恵みや、信仰の実である善行、あるいは信仰の恵み、あるいは他のいかなる行いが義として彼に帰せられるからではありません。信仰はキリストとその御名を受け入れ、適用する手段に過ぎません。
教義によれば、信仰はキリストとその御名を受け入れ、適用する手段に過ぎず、つまり信仰は神の義に近づく手段に過ぎません。しかし、信仰はイエス・キリストと一つになっています。聖徒が十字架上でイエスと共に死に、復活したイエスと共に復活したと信じる時、それは天から来る信仰となります。信仰そのものはイエス・キリストであり、信仰は私を否定することなしには得られません。もし信仰が与えられないなら、人は依然として律法の下にあります。
ガラテヤ人への手紙3章22-23節、「しかし、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めました。それは、イエス・キリストを信じる信仰による約束が、信じる人々に与えられるためです。しかし、信仰が現れる前には、私たちは律法の下に閉じ込められており、やがて啓示される信仰の時まで、閉じ込められていました。」 イエス・キリストを信じる信仰による約束とは、言い換えれば、イエス・キリストへの信仰から来る約束です。
新生した人の信仰は、すべての人が持つ信仰ではなく、神に認められ、神からの賜物として与えられた信仰です。それは私が信じることができる信仰ではなく、十字架上のイエス・キリストと一つに結ばれた信仰です。テトスへの手紙1章1節には、「神の僕、イエス・キリストの使徒であるパウロは、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔に属する真理の知識とを授けました。」とあります。神に選ばれた人々の信仰とは、十字架上のキリストと一つに結ばれた信仰です。聖書には「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」とあります。救いの基準は、選ばれることです。
コメント
コメントを投稿