問52 キリストは復活においてどのように高められましたか。
問52 キリストは復活においてどのように高められましたか。
答 キリストは復活において高められました。死において腐敗を見なかったからです(死にとらわれることができなかったからです)。そして、苦しみを受けたその同じ体が、そのすべての本質的な特性(死すべき状態やこの世の一般的な弱さを伴わずに)と共に、実際に彼の魂と結びつき、三日目に彼の力によって死者の中からよみがえられました。それによって、彼は自らを神の子であると宣言し、神の正義を満たし、死と死の力を持つ者を征服し、生者と死者の主となりました。公人として、また教会の長として彼が行ったことはすべて、信者を義とし、恵みによって彼らに新しい命を与え、彼らの敵に打ち勝ち、そして終わりの日に彼らを死者の中からよみがえらせることを彼らに保証することでした。
イエス・キリストは、ご自身が天から降って来た命であると言っています。復活という言葉についてですが、肉体の観点から見ると、死んだ肉体が霊と再び結びついて復活すると信じますが、霊の観点から見ると、イエスはもともと天の命であり、しばらく地上に閉じ込められた後、天の命として復活することを意味します。イエス・キリストは天の命ですから、肉体は死に、天の命として復活したのです。しかし、もしあなたが肉体が復活したと主張するなら、それは肉の目で見ているからです。
ルカによる福音書20章35-36節には、「しかし、その年齢に達し、死人の中から復活するにふさわしいとみなされている人たちは、めとることも、とつぐこともなく、また、もはや死ぬこともありません。彼らは天使たちと等しく、神の子であり、復活の子だからです」とあります。マタイによる福音書22章30節には、「復活の時には、彼らはめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようになるのです」とあります。御使いは霊です。ですから、復活とは死んだ霊が命の霊に戻ることを意味します。
イエスが死者を復活させる場面があります。イエスはナインのやもめの息子ラザロと、会堂司ヤイロの娘を復活させました。もし復活が死者の復活のようなものであるなら、これらの人々は復活したので不死の体を持つはずです。しかし、彼らは復活した体ではありません。なぜなら、イエスは彼らが復活の初穂であると明言したからです。
コリント人への第一の手紙15章21-23節には、「ひとりの人によって死が来たのだから、ひとりの人によって死者の復活も来たのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。ただし、それぞれの順番は決まっています。キリストが初子であり、その後、キリストが来られるときに、キリストに属する人々が生かされるのです。」とあります。
ですから、イエスが復活される前には、復活した者は一人もいませんでした。ヨハネによる福音書3章13節には、「天から下って来た者、すなわち、天におられる人の子のほかには、だれも天に上ったことはありません。」とあります。「天から下って来た者、人の子」とは誰でしょうか。彼が天から下って来たという事実は、イエスが聖霊によって受肉して生まれたことを意味します。聖霊によって生まれたイエスだけが、復活の初子なのです。
イエスは生きている間に死者をよみがえらせました。イエスは、ナインの未亡人の息子で、会堂司ヤイロの娘であったラザロを復活させました。しかし、ヤイロの娘を復活させた時、イエスは「タリタクム」(「子よ、起きよ」)と言われました。そのため、彼女の霊は戻ったと言われています。ルカによる福音書 8:44-45「イエスは娘の手を取って、『子よ、起きよ』と呼びかけられた。すると、彼女の霊は戻り、彼女はすぐに起き上がった。そこでイエスは、彼女に何か食べ物を与えるように命じられた。」私たちは三人の死者の復活を復活とは呼びません。
イエスが十字架上で亡くなった後、彼の霊は彼から離れたと言われています。マタイによる福音書 27:50「イエスは再び大声で叫んで、霊(プネウマ)を与えられた。」ペテロの手紙一 3:18-19「キリストも、私たちを神のみもとに導くために、一度罪のために苦しみを受けられました。正しい方が不義な者のために苦しみを受けられたのです。それは、肉体においては死に渡され、御霊においては生かされたからです。そして、御霊によって、獄中の霊たちに福音を宣べ伝えられました。」
復活が死体の帰還となるためには、少なくともまず死体が生き返り、ヤイロの娘のように霊が体の中に入らなければなりません。そうして、最終的に私たちはヤイロの娘と同じ状態になり、イエスは復活の初子です。ですから、聖書は復活とは両親から受け継いだ肉体の帰還ではないと教えているのです。
使徒パウロは、復活の体を霊的な体として語っています。コリント人への第一の手紙15章35-38節にはこうあります。「では、だれが『死者はどのようにして復活するのか。どのような体で来るのか』と尋ねるでしょうか。愚かな者よ。あなたが蒔くものは、死ななければ、生かされることはありません。あなたが蒔くものは、後に生まれる体ではなく、ただの種、小麦か他の穀物を蒔くのです。神は、ご自身の選んだとおりに、種に体を与えてくださいます。それぞれの種には、それぞれ固有の体があります。」
農夫は種を蒔きますが、それは将来の形を蒔くのです。彼は種が後に実を結ぶと考えて種を蒔きます。種皮は死に(消え)、その中の胚芽は成長し、別の形に変化します。
コリント人への第一の手紙
15:42-44 「死者の復活もまた同じです。朽ちるものとして蒔かれ、朽ちないものとしてよみがえらされます(en
aphtarsia)。不名誉なものとして蒔かれ、栄光のものとしてよみがえらされます(en
aphtarsia)。弱さとして蒔かれ、力あるものとしてよみがえらされます。自然の体として蒔かれ、霊の体としてよみがえらされます。自然の体があれば、霊の体もあります。」
en aphtharsia(ἐν
φθορᾷ)は永遠の命を意味し、egeiretai(ἐγείρεται)はよみがえることを意味します。永遠の命において、霊はよみがえります。霊体と訳されるソーマ・プネウマティコーは、霊の体です。復活は、それが肉体ではなく霊の体であることを私たちに教えています。
コリント人への第一の手紙 15:50「兄弟たちよ、わたしはこのことを言います。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。朽ちるものは朽ちないものを受け継ぐことはできません。」
ヨハネによる福音書 6:63には、「命を与えるのは御霊です。肉は何の益にもなりません。わたしがあなたがたに話した言葉は、霊であり、命です。」とあります。
ガラテヤ人への手紙 2:20「わたしはキリストと共に十字架につけられました。もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしの内に生きておられるのです。今わたしが肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をお与えになった神の御子を信じる信仰によって生きているのです。」
このように、聖書の多くの箇所を通して、霊的な復活について語られています。復活を要約すると、肉体に囚われた霊は死にますが、死から蘇り、肉体の両親からではなく、天から与えられた体(霊の体)をまとって元の状態に戻ることを意味します。
第二に、キリストにある聖徒たちの復活は、肉体の死後に起こる未来の復活なのでしょうか、それとも現在の復活なのでしょうか。
ローマ人への手紙6章5節には、「もし私たちがキリストと一つにされたのであれば、必ずキリストと一つにされた復活にも一つになるはずです」とあります。キリストの死との一体化がまず第一であり、キリストの復活との一体化が次に来ます。
ヨハネによる福音書11章23-26節 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟は復活します。」マルタは言った。「終わりの日の復活の時に復活することは、私は知っています。」イエスは彼女に言われた。「わたしは復活であり、命です。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は決して死にません。あなたはこれを信じますか。」
マルタの兄弟ラザロが死んだとき、マルタは、もしイエスが自分の家にいたら、死ななかっただろうと言いました。 11章22節で、マルタは「私たちが神に求めるものは何でも、神は与えてくださると信じています」と答えました。だからこそ、イエスは「彼は再び生きるでしょう」と言われました。しかし、マルタは「再び生きる」を、今この瞬間に起こることではなく、肉体の死後、未来の最後の日に起こる復活として考えていました。イエスが求めていたのは、今この瞬間に起こることなのです。
11章23節から26節で、イエスはマルタにこう言われました。「わたしは復活であり、命です。わたしを信じる者は、たとえ霊が死んでいても生きます。そして、霊が生きていると、天から信仰の賜物を受けて、決して死ぬことはありません。」これを肉体の観点から見ると、「わたしを信じる者は、たとえ肉体が死んでも、いつか生きます。また、肉体が生きている間にわたしを信じる者は、決して死なない」という意味になります。この文構造は非常に不自然です。聖書は霊について語っていますが、信者は肉体の復活について考えています。コリント人への手紙二5章17節には、「ですから、キリストに結ばれている人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました」とあります。これは、イエスの十字架と共に死に、キリストと共に復活したことを意味します。
ヨハネによる福音書6章48-50節には、「わたしは命のパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べて死にました。これは天から降って来るパンです。これを食べても死なないためです。」とあります。天から降って来るパンは、復活の命を意味し、これを食べても死なないためです。不死とは肉体のことではなく、霊的な意味を持ちます。言い換えれば、キリストの復活と一つになり、霊的な体として永遠に生きることを意味します。
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