問44. キリストはどのようにして祭司の務めを果たしますか。

 問44. キリストはどのようにして祭司の務めを果たしますか。

答え:キリストは、ご自身を一度限りの完全な犠牲として神にささげ、民の罪の償いとなり、彼らのために絶えず執り成しをすることによって、祭司の務めを果たします。


ヘブル人への手紙 8:1-5 さて、ここで私たちが言いたいことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。彼は天の大能者の御座の右に座し、聖所、すなわち人間ではなく主によって立てられた真の幕屋で仕える者です。すべての大祭司は、供え物と供え物を献げるために立てられるのですから、供え物も献げなければなりません。もしイエスが地上におられたなら、祭司ではなかったでしょう。律法に従って供え物を献げ、天にあるものの模型、影となる祭司がいるからです。モーセが幕屋を造ろうとしていたとき、神から警告されたとおりです。なぜなら、「山で示された型どおりに、すべてのものを造りなさい。」

イエスの祭司としての役割は、この地上で祭司となることではなく、神の国で祭司の務めを果たすことです。「義について」とは、イエスが神のもとに行くことであり、旧約聖書において義とは、一つの律法さえも破らないことを意味していました。しかし、聖霊は、それだけでは義は達成されないと告げています。イエス・キリストは十字架上で死に、世のすべての罪を背負って神の御座の前に進み出ました。

旧約聖書において、イスラエルの民はすべての律法を守ることができなかったため、神の義を成就するために犠牲を捧げなければなりませんでした。そして、大祭司は屠られた動物の血を持って至聖所に進まなければなりませんでした。神がイスラエルの民の罪を赦したように、イエスは十字架上で血を流し、悔い改める人々のすべての罪を自ら引き受け、大祭司として神の御座に進み出ました。ヘブル人への手紙 9:25「ですから、キリストは、ご自分を通して神に来る人々を、完全に救うことができるのです。キリストはいつも生きて、彼らのために執り成しをしておられるからです。」

イエスが大祭司としての最終的な役割を果たされたので、イエス・キリストにあって生きる者は神の義となります。イエス・キリストは大祭司としての役割を果たされた後、神の御座の右に座されました。そして、イエス・キリストにあって生きる聖徒たちも、イエス・キリストと共に座します。彼らは肉体的にはイエス・キリストと共にいるわけではありませんが、イエス・キリストにあって生きることは義となります。

ヨハネ16:7-11「しかし、よく聞きなさい。わたしが去って行くことは、あなたがたの益となる。もしわたしが去って行かなければ、助け主はあなたがたのところに来ないであろう。しかし、わたしが去れば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わす。助け主が来ると、罪と義と裁きについて、あなたがたに明らかにするであろう。罪についてというのは、彼らがわたしを信じていないからである。義についてというのは、わたしが父のもとに行くからであり、あなたがたはもはやわたしを見なくなるからである。裁きについてというのは、この世の支配者が裁かれたからである。」

イエスは大祭司として、全人類の罪を背負って神のもとに行かれました。ですから、キリストにあるすべての者の罪は赦されています。ヘブル人への手紙7:27「キリストは、あの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、それから民の罪のために、日々いけにえをささげる必要はありません。なぜなら、キリストは一度ご自身をささげることで、これを成し遂げられたからです。」今、聖徒たちは罪から解放され、聖霊に導かれた生活を送り始めます。

しかし、大祭司であるイエスが成し遂げた業を信じない信者もいます。今日の教会共同体には​​、「過去の罪だけが赦されるが、現在と未来の罪はイエスの血によって再び赦されなければならない」と信じている人が数多くいるのが実情です。

ローマ人への手紙 8章1-2節「ですから、キリスト・イエスにある者は、もはや罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって、いのちの御霊の法則が、罪と死の法則から、あなたがたを解放したからです。」イエスはこのように言われましたが、もしあなたがこの言葉を信じず、罪についての自分の考えを信じないなら、あなたは聖霊に対する冒涜の罪を犯していることになります。

「それは罪についてです。なぜなら、彼ら(罪人たち)は私(イエス)を信じないからです。」イエスが十字架で亡くなる前、ユダヤ人が語っていた罪は律法を破ることでした。しかし、イエスはこの世に来られ、十字架で亡くなり、悔い改めた人々のすべての罪を自ら引き受けられました。この事実を信じないことが罪なのです。この罪は聖霊に対する冒涜を意味します。しかし、教会に行ってイエス様を信じればそれでいいと思っているなら、それは問題です。単純にそう思っているだけでは、聖霊の叱責を知らないのです。

教会共同体の人々は罪についてあまり知りません。多くの牧師は、旧約聖書では神から離れることが罪だったと言いますが、新約聖書ではイエス様の言葉を信じないことが罪だと言っています。しかし、普通の人にとって、神を信じないことはやはり罪です。そして信者にとって、神を信じると言ってもイエス様の言葉を信じないことは罪(聖霊に対する冒涜)なのです。

コメント

このブログの人気の投稿

問35. 新約時代において、恵みの契約はどのように執行されますか?

あなたがたのために天にたくわえてある

救いの霊と助けの霊