あなたはあなたの体に生の犠牲を提示します
(ローマ12:3-8)わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、 奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、 勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
ローマ人1-11は福音の内容を説明しましたが、12-15章は具体的な生き方、つまりクリスチャン生活の実際的な部分を扱います。『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である』 犠牲は自分のためではなく、神のために使われます。犠牲は、祭壇の上に置かれ、出血によって殺される傷のない動物を指します。傷のない動物は死ななければならない。この殺された動物が祭壇に置かれ、神にささげられるとき、この動物は犠牲と呼ばれます。犠牲にされた命の存在の理由は神に示されることです。クリスチャンとして生きること、つまり神へのいけにえであるということは、信者の生涯の目的が自分自身の犠牲ではなくて、犠牲を受ける神にあるということです。犠牲は私たちに、信者の人生の結果は彼自身の成功や彼の目的の達成ではなく、神の目的の達成にあることを思い出させます。神のようになりたいので神から離れる人は、自分の罪を悟り、いけにえになり、神の怒りを解放します。
犠牲の本当の意味は死にあります。犠牲が死ななければならない理由は、それをもたらした人を生き返らせ、赦されるためです。犠牲が生きている時、許しはありません。調整はありません。犠牲が死にかけている罪人と同一視されるとき、それは効果を発揮します。ヘブライ9:22では
『こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。 』
それは、ユニットに提供された犠牲が死んで出血したときにのみ、罪の赦しを意味します。犠牲が死んで出血があるときだけ、神の怒りは止まり、犠牲を捧げる人々は赦され和解されます。血を流されたのはイエス・キリストです。だから、イエス・キリストと一緒に死んだ人たちに血の影響が出ます。イエスと共に死なない人は犠牲ではありません。
イエス・キリストは生ける犠牲の模範でした。聖書が聖人に生けるいけにえであると教えているのは、イエスが犠牲の模範であり、イエスと一体になると聖人も犠牲になるということです。自分の老人(老人)が十字架につけられて死ぬと、生ける犠牲になります。『生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 』(ガラテヤ2:20)
外的には、イエスは死に、罪人は生きています。しかし内面では、罪人は死に、イエスは生きています。これが聖徒の生活、すなわち聖なる生け贄の生活です。罪人の生涯が生けるいけにえとして捧げられたときだけ、彼は主の御心を見分けることができます。イエスとの十字架で死んだ人たちは、キリストの意志を知っています。主の善良で喜びに満ちた完全な意志を見抜くことによって生きることができます。完璧な意味は、自分で何かをしようとすることではなく、イエス・キリストと共に死んでいることを認識することです。
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