あなたがたの中から出ることがないように



 

それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
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というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音がえられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 ヘブル(41-2節)で述べた。安息について、多くの人は、休むほど考えている人が多い。創世記(11節)で述べた。 はじめにとを創造された

天地を創造する前に、神のは、安息そのものだ。聖書(ヨハネの)は最後の時、「新しい天と新しい地に入る者が安息に入る」と言う。神自らが安息であり、イエスキリストが安息だ。一般的に言って安息を「休む」と思ったら、その次はまた、かなければなら日がくるが、神の安息に入るといて休む念がないのだ。天地創造をする前に安息だったが、天地創造をするので、安息が割れてしまったのだ。そして天地創造をすべて終わらせて、神がこの地で手を離しにくく安息をしたものである。創世記21-3節で述べた。

神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

神のの安息は、神が支配されるだろう。この地での安息は、天地創造の終わりという意味である。「神七日を祝福してくださった」という言葉は、世の中に祝福をえられたのではなく、日に福をくださるだろう。日は物質世界の時間と空間の中にある日だ。神が物質世界の中での日に祝福をえられたのは、物質的祝福ではなく、神のの祝福をくださるという意味がある。つまり、世界が終わる日に、神が永遠の安息をえるという約束があるのだ。聖書で安息をどのように明するか調べなければならない。ヘブル(48-10節)で述べた。

もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだされているのである。 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。

ヨシュアがイスラエルに安息をえたならば、それはカナンの地である。カナンの地は神のを象する。の安息はないことだ。したがって、安息する時、神の民にっているということだ。の安息はイエスキリストの中に入るものである神がの安息であるからである。また生まれわった者が、キリストの中で三位一体の神と接されている場合、安息に入った者である。
エペソ26節で言う。キリストイエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

イエスキリストにある者:肉の体が、イエスキリストと共に死に、新しい人(の体)がイエスキリストと一に生まれている。その新しい人はキリストと共に天に座っヒウムを受けるだろう。コロサイ(33節)も同に述べているあなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちにされているのである イエスと一 に死んだ者は古い人である。聖書は言う:"新しい人の命が神の中にガムチュウィた」。ヘブル(410節)で、「このような人たちを に安息に入った者」と言うのだ。イエス キリストと一 に古い人が死亡した。イエスキリストと一に新しい命の中で生まれた者は、に安息に入った者だ。約聖書では、神がヘブライの民に、安息日を守るよう命令している。もし彼らが安息日を守らなければ、殺される。
出エジプト208-10節で述べた。

 安息日をえて、これを聖とせよ。 六日のあいだいてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他の人もそうである。 安息日を守ることは、十戒の一つとして、律法(怒りの法)にする規定である。
出エジプト記(3112-14節)で言う:主はまたモ?に言われた、「あなたはイスラエルの人に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちからたれるであろう。

記(1533-36)で話す。そのたきぎを集めるのを見た人は、その人をモセとアロン、および全衆のもとに連れてきたが、 どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じめておいた。そのとき、主はモセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全衆は宿の外で、彼を石でち殺さなければならない」。そこで、全衆は彼を宿の外に連れ出し、彼を石でち殺し、主がモセに命じられたようにした。

神は安息に入った者に「自分の仕事をしていてはいけない」と命令される。 「彼ら自身の仕事」という言葉は、まさに世界を愛すること」である。今日では、「安息日を守らなければならない」と言う人は「まだ安息に入った者ではなく」と告白するのと同じである。なぜなら、安息日を守らなければなら安息に入る考えるからである。たとえ、イエスキリストがられても、彼らはまだキリストを待っている場合である。キリストを待っている者は、イエスキリストの中にいないので、神のの安息に入っていなかった者である。イエスキリストの中にある者だけ安息に入った者である。安息の規定を守ろうとする者は、律法(怒りの法)を守る者だ。悔い改めてキリストの中に入るだけが、安息を得ることができる。しかし、律法の下にある者は、律法(怒りの法)に閉じめられて、罪の中にいる者であってすさまじく神の裁きを受けるだろう。
マタイ(121-2節)で言う:

そのころ、ある安息日に、イエスは畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、を摘んで食べはじめた。 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。

パリサイ人たちが言った:イエスの弟子たちが律法(怒りの法)に定められた規定を破った。さて、イエスはマタイ128節で述べた。安息日である」。 キリストの中にいる者は、すでに安息に入った者だ。しかし、「安息日を守らなければならない」と言う人は、律法を守る者だ。もし彼らの律法(怒りの法)を破ると、神から審判される。律法の中にある安息の規定を通って、すべての人間は、の安息がないという事を悟らなければならない。したがって、すべての人は、悔い改めてキリストの中に入らなければ、神から救われることができない。

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