海の上を歩く
海の上を歩く
ヨハネ 6:14-21 『人々はイエスのなさった奇跡を見て、「この人はまことに世に来るべき預言者だ」と言った。イエスは、人々が来て自分を無理やり連れ去り、王にしようとしているのを悟り、ひとりでまた山に退かれた。夕方になると、弟子たちは海に下り、舟に乗り、海を渡ってカペナウムに向かった。しかし、もう暗くなっていたのに、イエスは彼らのところに来られなかった。激しい風が吹いて海が荒れた。そこで、弟子たちが二十五、三十スタディオンほど漕ぎ進んだとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのが見えたので、彼らは恐れた。しかしイエスは彼らに言われた、「わたしだ。恐れることはない。」そこで彼らは喜んでイエスを舟に乗せた。舟はすぐに彼らの向かう陸地に着いた。』
『そして彼らは舟に乗り、海を渡ってカペナウムに向かった。しかし、すでに暗くなっていて、イエスは彼らのところに来られなかった。すると、激しい風が吹いて海が荒れた。』暗闇は、弟子たちがまだ律法の網から逃れられなかったことを示している。風が吹いて波が荒れたのは、彼らが律法から解放され、聖霊の導きを受けることを示唆している。同じ表現がマタイ14:22-36にも使われている。
弟子たちはイエスが海の上を歩いているのを見て恐れ、「幽霊だ」と言った。ペテロは舟から出て水の上を歩いた。舟はキリストを象徴している。舟の始まりはノアの箱舟である。箱舟は救いの象徴なので、イエス・キリストを象徴している。ここでは、海は律法を象徴している。したがって、水の上を歩くイエスは、律法の上にいることを示す。
しるしを見てイエスに従った人々は、ついに驚くべきしるしを経験しました。彼らは、イエスが申命記18章で預言されたモーセのような預言者であると信じ、イエスを自分たちの王にしたいと考えました。彼らは、イエスが政治的解放、経済的復興、社会的正義をもたらすと信じていました。彼らは、イエスが自分たちの夢を叶え、祈りの答えになると信じていました。しかし、イエスは彼らの要求に応えませんでした。
波を支配し、水の上を歩くイエスは、力がないから彼らの要求を拒否したわけではありません。それは、イエスが人間に自由、充足、解放を贈り物として与えたくないからではありません。イエスの考えが彼らの考えと異なっていたからです。イエスに従い、数々のしるしを見たユダヤ人は、イエス自身よりも、イエスから来る力を欲しただけです。
彼らは、イエスを王にすれば、自分たちの生活が改善され、痛みや苦しみが消え、すべての病気が治ると信じていました。しかし、この信仰は天からの信仰ではありません。この信仰は単なる盲信であり、イエスを通して富と繁栄を拡大し、豊かな生活を確保しようとする異教徒の偶像崇拝的な態度と何ら変わりません。今日、「現世の祝福を祈る信仰」はその典型です。
彼らは、イエスを王にすれば生活が向上し、痛みや苦しみが消え、すべての病気が治ると信じていました。しかし、この信仰は天から来る信仰ではありません。この信仰は単なる盲信であり、イエスを通して富と繁栄を拡大し、快適な生活を確保しようとする異教徒の偶像崇拝的な態度と何ら変わりません。今日、「現世の祝福を祈る信仰」はその典型です。現世の祝福を祈る信仰は偶像を信じる人々と何ら変わりません。それは、世の中で成功し、金持ちになり、有名になるために偶像にひれ伏すのと何ら変わりません。これはキリスト教ではなく、異教です。キリスト教は、イエス・キリストの十字架上の死と現在の復活とのみ結びついています。
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