すなわち、キリストとその復活の力とを知り
『すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 』 (ピリピ3章10-12節)
パウロは ダマスコで キリストに 会った。彼は イエスの声を 聞いて、太陽より 明るい 栄光の中、イエスを 見た。彼は
信じられないほどの経験を したにもかかわらず、ピリピ教会への手紙するときこう言った。イエスは 弟子たちに、「世界が 私を憎んだように 世界が 君たちも
憎むべき」と 言われた。イエスは 世を 愛するのではなく、世界に 勝つ者べきだと言われる。私たちは、世界に 勝つ者になるために、私たちは イエスの苦難に 参加しなければならない。イエスに 従う 者は、世界との調和されない。イエスは
ピラトに言った:私の国は、世界の国では ない。私たちが求めなければだけのことは、この世界ではなく、神の国だ。神の国を 救うためには、イエス・キリストの中に入るだけである。
『しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
』 (ピリピ3章7節)
キリストを 得ることが、キリストの中に入るものである。キリストの中に入るためには、十字架の 苦難に 参加しなければならない。だから、私たちは キリストと共に 死ぬのだ。 「死ぬ」ということは、神の約束の言葉の前に 私の知識と経験に 由来すると 考えを 多 下ろすと いうことだ。霊の体に 戻って生まれた者に 対して 1ヨハネ(3章9節)は言う:彼らは罪を 犯さない 存在となる。ところが、人々は 知識と経験的に見ると、人間は 肉体の弱さに 罪を 犯すしかない 存在だと 思う。これが 神様の怒りの法の中に 閉じ込められている者である。カナンの地の 前で 十人の斥候が 「私たちが入ると死ぬ」と言うのと同じである。彼ら
カナンで アナクの子孫を 見て、自分たちは それらと 比較すると バッタと 同じであると 考えた。神は 一緒に戦わうとするが、彼らは 戦うことができないと 述べた。だから、神は 彼らを カナンに入らないように命令した。十人の 斥候は すぐに死んでしまった。
今日では、霊の体で 生まれた 人は、悪(昔の人)と戦う。聖霊に 頼るとき、私達は戦って勝つことができる。もし 私たちが 知識と経験に事前に 決定すれば、十人の斥候のようになる。十人の 斥候は、神の怒りの法律にある者で あった。神の怒りの法は、
網と 同じである。もし 魚が 網に かかっている場合、自分の 抜けられない。死ぬ 抜け出るている。私たちが キリストの中にあれば、神の怒りの法律によって 死んだ者に なる。『律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 』 (ローマ8章3-4節)
しかし、イエスを信じる多くの人々が、神の怒りの法を守っている。キリストにある者は怒りの法関係ないが、怒りの法を守る者は、イエスとは関係ない。
例えば、ある人が 北朝鮮で 生きて 米国に 脱出して、アメリカの市民権を 獲得すると、彼は 米国市民になるのだ。彼は 北朝鮮に 対して死んだ者になる。それでも彼は、米国の移民局に行って、北朝鮮の法律を 考えて、それでも 北朝鮮の法を 守らなければならないと 言うなら、アメリカ当局が 市民権を 与えることと同じですか?アメリカの市民権を 受けた者は、北朝鮮の法とは 関係のない者が いるのだ。同様に、キリストの中に入る者は 怒りの法 関係のない者と なる。キリストの中にいる者は、神の国の市民権を 持つ者になる。『しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。』 (ピリピ3章20節)
神の怒りの法は、罪人たちが 守るものだ。キリストにある者は、怒りの法に 対して死んだ者がされ、聖霊の法に 適用を受けるものである。キリストと共に死んで義人された者たちは、聖霊の法に適用される。まだ 我々は 怒りの法を 話して守らなければならないと思うなら、私たちは 自ら 罪人であることを認めるものである。罪人は、神の国に入ることができない。
キリストの中にいるために、水と 霊と 生まれ変わらなければならない。ローマ(6章4節)で 言うように、水は 洗礼を 表現することで、死んだ者で あることを 意味する。『すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 』 たとえ人々がキリストの中に あると 言うが、怒りの法を 守ったり、行動するなら、彼らは 神の国の市民権を 受けたことがない 者である。なぜなら、神は 彼らを怒りの法で
適用することが あるからだ。怒りの法律の中にある すべての者は、罪人である。怒りの法律にある者は、神からの信を贈り物として受け取ったことがない。『しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。 』 (ガラテヤ3章23節)
『もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 』 (ローマ8章17節)
私たちは、神の国と 世の福を 同時に 追求することは できない。まず、神の国を 求めなければならない。『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 』 (マタイ6章33節)
イエスはマタイ(6章31-32節)の言葉を 言われた。『だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
』
多く 教会の人々は、神の国を 入ることを 望む。しかし、最初に、彼らは、この地にあることを
求めればどうなるでしょう?『だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、 更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。 』(コリント3章18-20節)
悔い改めていない人は、まず、この地に あることを 求める。悔い改めは、自分を否定するものである。悔い改めは 世の中に 対して死ぬだろう。ところで、悔い改めを していない者が、世界を 愛しつつ、「イエスの愛」と言うなら、イエスがどのように考えてだろうか?あなたが道を歩く、突然誰か現れて「愛して」と言うなら、彼は奇妙な人である。イエスは、「あなたは誰だ」と言うだろう。
『なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。 』 (ローマ8章5-9節)
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