すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
『 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 』 (ロ-マ3:23-25)
旧約聖書で言う:和解のいけにえ(a propitiation)は箱の上に贖罪を意味する。子羊の血が神と罪人の間に和解(a propitiation)の役割をするので、神は羊の血を通し罪人の罪を覆いてからである。だから罪人は「子羊の血が交わり(a propitiation)の役割をすること」を信じている。罪人と子羊の死と一つになる信頼である。もし小羊の死と罪人が異なる存在として認識する場合は、血が和解(a propitiation)の役割をしていない。 『それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 』もし、我々が十字架で死んだイエスと一つにされなければ、私たちは神から救われない。「イエスを信じるだけで、救われる」という言葉がどのよう正しくのか?
「私たち自身の十字架を負う」という 意味では、私たちが 神に対して 死刑に 相当する 言葉だ。私たちが 神に対して 死刑に 該当する 事実を認識していない場合は、イエスは
「私はあなたを知らない」と言うだろう。聖書は、ローマ(1:23-31)で死刑に 相当する 罪を 列挙している。すべての人が 神に 死刑に 相当する。この言葉は、聞く人に福音になるなぜならば、福音が
悔い改めの機会を 与えるからである。さて、もし、教会の人が 初信者に「神は愛であられる、あなたは救われるため生まれた」と言うなら、その人は 悔い改めの機会を 逃すだろう。今日の状況を 見ると、多くの教会が 人々を 教会に導くために、福音を
弱体化させている。教会の人が 罪人を 欺くものであり、彼も神に罪が
追加されるだろう。私たちが 福音を 正しく伝えるとき、福音が神の力になる。『わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
』(ロ-マ1:16)
福音の力は 苦しむ時に発揮されることが できる。『神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。 』(ロ-マ1:17-19)
人々が 「神が罪人に怒っている」という事実を 悟って、「イエス・キリストがなければ救いはない」という事実を 信じるときに、この信仰が
救いにつながるくれる。だから 救いの信仰は、イエス・キリストと一緒に 死ぬ信頼である。出エジプトしたヘブライの民は
紅海を 渡る信を持っているが、ヨルダン川を 渡る信は 持たなかった。すべての信者が 神の怒りの下という 事実と イエス・キリストがすべての人間のために死なれたことを 信じる。しかし、彼らはイエス・キリストと連合されなければ、彼らは カナンに入らなかったヘブライの民と 同じで言わある。
だから、もし、最初の信が最後までつながらない場合は、救いから離れることができるというものである。 『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 』 (ヘブル4:1-2)
ヘブライの民が 荒野で「カナンに入る信」を 自ら 捨ててしまった。人間が 神と結んだ 契約を 捨てたのだ。神は まず契約を 壊すおられない。人間が 契約を 先に目を 覚ましてしまうのだ。私たちは、神との契約を
目覚めてしまったかどうかを
よくわからなければならない。神との契約を したことがないと思っている人は、出エジプトもしていない 人々である。しかし、 カナンに入らなく 、契約を 守っていると言うなら、荒野で
死んだヘブライの 民のように 昔の人々と いうことだ。カナンに入る
信は、十字架のイエスの中に入る 信である。
民の中から 出エジプトして 紅海を 渡って、カナンに入る 信を 持った者(ヨシュアとカレブ)が 救わ受け、神が 正しいと 称するを 受ける者だ。同様に、イエス・キリストが 自分の罪を
代わりにして 死んだ 信を 持つ者は、ローマ(6章3-4節)の信につながらなければだけが 救われると いう 言葉である。『それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 』(ロ-マ6:3-4)
二つの条件が すべて 行われるだけである。ところで、ほとんどの
教会の 人々は、 イエスを信じる 信に 満足で あると 信じるものである。彼らは一つのだけで
足りると 考えている。
私たちが 召されて、選ばれても 受けなければ、神の国に 入るだろう。もし
私たちが 召されたが、選ばを 受けなければ、暗い 外に 追い出されないことだ。愚かな 5処女と 賢明な5処女の話も 同じ意味を 表す。誰もが イエスを 信じるとして 教会に 来た 信者(ともしびをキョトウム)であるが、他の油を
準備していない者は 愚かな5処女である。他のオイルは、聖霊である。私たちが 聖霊を 受けるために十字架で、イエスと 一緒に 死ぬということだ。だから、聖霊に 生まれ変わることになる 聖書が 愚かな5処女に 述べている。『さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 』(ロ-マ3:19)
聖霊の力を 受けていない人々は 皆死ぬしかない、神の怒りの法(律法)の下にある者である。
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