律法と聖霊について
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『そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:14-16)
この聖書の言葉は、イエスとニコデモという人との会話の最後の部分である。ニコデモはイエスの言葉を理解していなかったが、あなたが理解しましたか?ニコデモは、「イエスが神から来られた方」ということを知っていると述べた。しかし、ヨハネ3章3-4節でイエスとニコデモの会話を通じて、 『イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか。』 ニコデモがイエスの言葉を理解していなかったことを認識することができる。ニコデモは「親から受けた体が生まれ変わるだろう」と考えた。だから、彼はそれが不可能なことだと思った。しかし、イエスがした言葉は、霊の体である。
『肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。』 (コリント15:44)
親から受けた体は"世界の法」に適用されるが、聖霊から生まれた体は、聖霊の法を適用される。特にユダヤ人たちは、シナイ山で神から受けた律法に適用された。聖霊の法は、神との契約した人に適用される。契約を信じている人は、聖霊に生まれ変わった者だ。契約は「神がイエス・キリストの死に入る者に聖霊に生まれ変わらてくださる」は約束である。これは神の約束を信じる信仰である。
『 そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。 女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。 さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。 』 (ガラテヤ4:22-24)
ガラテヤ言葉は「イシュマエルは律法によって生まれたものであり、イサクは、聖霊に生まれたもの」を意味する。律法の下にある者は救われない。ただ聖霊に生まれた者だけ救われる。しかし、あなたが "私はイエスを信じてい」と言っても、あなたは聖霊に生まれなければ、救われない。あなたが聖霊に生まれるためには、悔い改めて、十字架で死んだイエスと一緒に死ななければならない。コンピュータのハードディスクを交換するのと同じである。以前のハードディスクは、肉体の魂(感情、知識、意志)である。新たに交換されているハードディスクは、聖霊に生まれた霊の体である。人の肉体は、コンピュータの本体である。一見には、以前と同じだが、ハードディスクは変わったのだ。神が悔い改める者の魂を交換させるものである。
従って後悔するとき、常にあなたは「聖霊に生まれた者」と信じなければならない。だから、あなたは罪から離れるされる。
『 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。 』 (ガラテヤ3:22-23)
律法の網に閉じ込められている者は、罪の中に生きている者である。すべての人が罪を犯しため法が必要である。だから罪から抜け出すためには、法によって死ぬだろう。刑務所にいた罪人が死ぬ、刑務所から出てくる。罪人たちも、神の法によって死ぬ、法で解放される。イエスはローマの総督ピラトによって判断を受け、パリサイ人たちがイエスを神軽蔑十字架で処刑された。しかし、神は、イエスを罪人を贖うために、神の律法によって死ぬ許諾したという。イエスの死は、律法によって死んだ。神は、イエスと一緒に十字架で連合された者を法によって死んでいる認めている。彼らはすぐに神に悔い改める者たちである。ガラテヤ2章19-20節で述べている:
『 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 』
イエスは、「水と霊によって生まれ変わるなければならなかっならない」と言われた。水は、律法を示す。イエスはガリラヤ地方の「カナ」というところの婚宴に招待された。ところが、婚宴にワインが足りなかった。「ワインが不足」の意味は、不完全な婚宴を通って、旧約聖書の律法がないことを示す。聖書は、ヨハネの福音書2章6-7節で言う:『 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。 』
瓶六は、律法を示す。瓶の水は、手を洗う水として、罪を洗い流し清めを示す。旧約聖書では、水は、罪を洗うことを意味する。ところが、イエス様が「その瓶に水をいっぱいに満たしなさい」と言われた。これは律法の完成である。律法の完成は、十字架での死である。従って水は死を示す。洗礼の儀式で水は死を示すものである。ローマ6章4節で述べている:『 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 』
ところで、水がワインに転換した。水が徐々にワインがされたものではなく、他の種類のされたことを意味する。ワインはイエスの血を象徴する。旧約聖書では、水の罪を洗うことで表現されたが、新約聖書では、イエスの血で拘束した後、罪を洗う。拘束することは、神がイエスの血の代価を通って」罪人をサタンから買っ」という意味だ。だから、神が拘束した者の罪を洗い流してくれる。だから罪人は、イエスと一緒に十字架につけられた者とする。ローマ6章6-7節で言う:
『 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
7それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 』
罪に対して死んだ者はシナイ山の律法に対して死んだ者になる。だから、罪に対して死んだ者は、律法ではなく、聖霊の法が適用される。律法の期間は、神がイスラエルの民にシナイ山で二錠を与え、そのときから、イエス様が十字架で死ぬまでに該当する。イエスは、十人の娘のたとえを通じてシナイ山の律法と聖霊の法を例えた。愚かな5処女はイエスを信じているとするが、シナイ山の律法に基づいて、神を信じる者であり、賢明な5処女は、イエスと一緒に十字架につけられた者になる。イエスと一緒に死んではシナイ山の律法とは関係がなく、聖霊の法が適用される。今日では、教会に通う人々の中には二種類の信徒たちがいる。一種類は「シナイ山の律法をまだ維持する者」ともう一種類は、「イエスと一緒に十字架で死んで、聖霊の力で生きていく者」だ。神は聖霊の力で生まれた者救われる。ローマ8章1-2節で言う:
『 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 』
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